達磨山は幾つかの山脈から成り立っていますが、この山脈が尽きる所に標高180mの小高い丘に狩野城跡があります。
 狩野城は、1100年前後の平安時代に狩野氏の祖狩野維景により造られたと考えられています。
 250年の間狩野氏はこの城を本拠地に中伊豆地方に勢力を振いました。狩野茂光は「保元の乱」に源義朝に加勢し、一族は源氏に重く用いられました。
 狩野氏は源氏の興隆と共に栄え、その滅亡と共に衰え1491年支配した足利政知が北条早雲に敗れ滅亡に至ったものです。
 狩野氏概説

 藤原鎌足十代の孫藤原為憲は天慶3年平将門の乱に討伐の功があり、賞せられて駿河守に任じられました。その孫維景は任を辞して、狩野郷日向堀内に来住し、初めて狩野を姓としました。
 日向は地勢平坦にして要害に乏しきを慮り、後本柿木城山の地を選んで城砦を築き、堀を廻らし、天嶮の地形を巧みに利用してここに移り住みました。
 維景の子維職は伊豆押領使に補せられ、勢力は狩野、伊東、宇佐美、河津の各荘より、伊豆諸島にまで及びました
---山木館討ち入りの錦絵---
 茂光源為朝を大島に討つ (1,170年)

 鎮西八郎為朝は、保元の乱に敗れ伊豆大島に流されていましたが、やがて勢力を持つようになり、後白河上皇の命により為朝征伐に出向きます。
 狩野介茂光は、近隣の武将(伊東、北条、宇佐美、加藤、新田、天野など)を従えこの為朝征伐は、狩野介茂光の名前を天下に轟かせ、伊豆における狩野氏の存在を不動のものにしました。
 全国に八家しかない「介」という称号を用いていたことからも伊豆及び伊豆諸島のことごとくを領地として治めていた狩野氏の権力は偉大でありました。

---   石橋山の戦いの錦絵   ---
 頼朝の旗揚げと石橋山の戦い   (1,180年)
 伊豆韮山の蛭ヶ小島に流されていた源義朝の子頼朝は、源氏再興を願い、山木判官兼隆を襲撃、ここに平氏追討の火ぶたが切って落とされました。それから、六日後頼朝征伐に平氏の軍勢三千騎が石橋山(神奈川県小田原市)で始まりました。
 残念ながらこの戦いは頼朝軍が負け、頼朝は船で房州へ逃げ延び、茂光は戦死してしまいます。その後、頼朝は関東の武将を集め軍団を建て直し、富士川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに平氏を破り、奥州の藤原氏を倒して全国を支配、1,192年鎌倉幕府を開きました。
 狩野宗茂 (茂光の子) は、一ノ谷戦いで捕虜した平氏の総大将平重衡を預かりました。頼朝がいかに狩野氏を信頼していたかという証でもあります。また、狩野氏武将は頼朝に従って各地に転戦し、武功をたて重く用いられました。親光は奥州藤原氏攻めの総大将として参戦しているものの戦死しています。
 親光の子親成は鎌倉幕府に仕え、狩野城を再建し狩野地方に勢力を張りました。
    
   中世の山城の模式図    
 狩野氏北条早雲と戦って開城す 
 室町幕府の韮山堀越御所、足利政知が死ぬと、北条早雲は伊豆を侵略し、延徳3年狩野・伊東連合軍は敗れ開城。
 狩野一族を攻め、伊豆下田関戸吉信を滅ぼし伊豆を平定した北条は小田原城を本拠地として関東一円に勢力を伸ばし、役百年間続いた戦国大名家の基礎を作りました。 
 しかしその約60年前、狩野氏一族に狩野景信という者があり、足利義教に見出され京に上り、画壇に怱然して明星のごとく出現しました。その子元信は画界に狩野派と称する流派を打ち立て一世を風靡するに至りました。
 武人狩野氏の末裔である絵師狩野派は、絢爛たる画風と共に、今に輝いています。

   ----  狩野城から 狩野の地を望む ----