2014.2.22〜23 赤城・松山の狩野氏探訪レポート

 朝6時30分に天城を出発、
 開通した伊豆縦貫道〜新東名〜東富士道路〜中央道〜圏央道〜関越道と、午前中は走りづくめでした。
 休憩に立ち寄った、中央道談合坂サービスエリアの、大きな雪壁です。
 中央道は雪かき作業のため50キロ制限でした。関越道に入り、渋川方面大渋滞の案内標識が出ていて、止む無く国道17号線を走りましたが、目的地には30分以上遅れての到着となりました。
 悪戦苦闘しながらも、群馬県渋川市赤城町津久田にある、「龍泉寺」に到着。
ごらんの雪景色で、地もとの人も、「こんなにたくさん雪が降ったことは、記憶にない」と、話していました。
  赤城の位置は、関東平野の最北西にあり、上信越とを結ぶ要衝です。後北条氏の関東支配においての天正年間、狩野氏一族は津田沼・長井坂両城を拠点に活躍したことが、話の中でうかがい知ることができました。
 寺の過去帳や位牌から、狩野家大先祖が一族の原点であり、今は8割ですが、当初は檀家の9割が狩野性という住職の説明にも驚きました。
 住職に見せていただいた過去帳に、狩野代先祖の記述があり、位牌もその表記であることに、驚きました。
 檀家数約160戸のうち、8割が狩野家(寺開設時には9割)を証明する墓地です。狩野家が圧倒的に多く、奥(南天の木の先)が、狩野家大先祖の墓所です。
 研修2日目、群馬県桐生市に行きました。
 市内上船原出身の鈴木満画伯の絵画を多数所蔵する、大川美術館です。
 2日目午後、松山城跡に行きました。
 狩野城開城後、狩野氏は滅亡せず、各地で活躍しましたが、狩野介は、松山城周辺を所領し、当時活躍した様子を知ることができました。松山城は国の史跡にも指定されています。当時は、市野川が3方向を流れ、地形も複雑であり、簡単には落城しなかったことも、うかがい知ることができました。
 松山城跡見学に続いて、隣接する吉見百穴を見学、発祥地とされる天然ヒカリゴケ、実際に中に入って、軍事工場跡を見てきました。同様のものが、函南町にあるため、興味深く見学しました。
 帰り道、行きと逆コースづすが、中央道の終点、富士急ハイランドです。
 高速道路からですが、まだ、かなりの雪が残っていました。